阿用小学校


阿用はこんな所

雲南市大東町には、大東地区、海潮地区、春殖地区、幡屋地区、佐世地区、久野地区、塩田地区、そして阿用地区があり、小学校7校に、中学校が2校あります。
私たちの阿用小学校は、JR出雲大東駅から南へ約3kmくらいのところにあります。

阿用地区は平成19年4月1日現在で、面積が11.7k㎡、世帯数が387世帯、人口が1,306人です。
そして四つの大字に分かれていて、16の自治会があります。
地域の人たちは教育に関する関心が高く、いろいろな面で学校の活動などに協力をして下さいます。

学校の周りには田んぼがたくさんあります。
そして地区の真ん中には阿用川が流れていて、魚釣りをすることもできます。
また、夏になると蛍がたくさん飛んで、とてもきれいです。
大東町は蛍の生息する町としても有名です。

川と同じように、県道も地区の真ん中を通っています。近年整備が進んできて、交通量が増えてきています。
松江市から仁多町を通って広島方面へ向かう車の通り道としても、この道路が利用されています。

歴史を伝えるもの

阿用の歴史を伝えるもの【7年度6年生の学習発表】

叶坂(かないざか)古墳

古墳時代後期中頃の古墳です。
古墳は昔、その地域の指導的な立場にあった人たちのお墓です。
大きな石で石室を作り、土を盛り上げてあります。
横穴式の石室が確認されているのは、町内ではこの叶坂古墳だけです。

阿用城跡(磨石山)

尼子時代のお城の跡です。
もともと、桜井氏は尼子氏に服従していましたが、その時の城主、桜井宗的が尼子経久にそむいたために、攻められました。
宗的が、夜に敵の吹く笛の音だけを頼りに弓を命中させた話など、多くの話が伝えられています。

恵比須神社

学校のすぐ近くにある恵比寿神社です。
昔、城下町であった時代の中心で、五穀豊穣、商売繁盛の神様として奉られています。
ここにある榎は相当古く、はっきりした樹齢は分かりませんが、島根の名樹として紹介されたこともあります。

一里松跡


一里松とは、江戸時代に幕府の命令で4Kmおきに植えられた松です。 高さが16メートルもあったそうですが、残念ながら現在実物は残っていません。 昔、交通を馬や人の足に頼っていた時代の道路のめじるしで、県内でも数少ない貴重な史跡です。

焼き飯岩

一里松の近くにあって、大きな石の台に丸い石が乗っています。
どうして焼き飯いわというのかよく分かりませんが、上の石が下に落ちても、次の日にはまた元通りになっているという言い伝えがあるそうです

塩竈(しおがま)さん

巨大な花崗岩(かこうがん)の岩です。
昭和の初めまでは安産の神様として、多くの人たちがお参りに来られたそうです。
自然の力って、本当にすごいと思います。
たぶん、これから何万年先までも、変わることなく阿用の歴史を見つめていくことでしょう。

モリブデンの産出

阿用は日本一のモリブデン産地でした!

モリブデン鉱の採掘は、明治45年頃から始まりました。
清久山の山腹で発見されたのが始まりで、次々と鉱脈が見つかって採掘されましたが、その間、採算がとれるまでには数知れない苦労と努力がはらわれてきました。
時には手堀のものを出荷しましたが、換金することができず、持ち帰ったということもありました。

第一次世界大戦中にドイツ人が、日本刀は細身でありながらよく切れて強いことに着目しました。「あめのむらくもの剣」を思いだし、斐伊川上流域に何か秘められているのではと推測して分析した結果、モリブデンが含まれていることを発見したことによって、その価値が急に出てきました。
戦時中は、兵器の製造に重要な役割を果たすことから一躍注目されて、生産が飛躍的に伸びてきました。
しかし、その後は何回もの閉山を繰り返しながらも採掘は続けられましたが、鉱石が出なくなり昭和40年頃には全て廃坑になりました。
そして現在は、山の斜面に当時の礎石が残っているだけです。

当時、モリブデンの産出量は阿用が全国一で、日本の産出量の大部分を占めていましたが、現在は輸入に頼られていると聞いています。
モリブデン鉱は銀白色の光沢があります。これを加えられた金属は高温に耐え、また摩擦が非常に少ないという特色があり、主に電子機器部品に利用されているとのことです。
上のモリブデンの写真は阿用小学校で保管されているもので、丁度10キログラムの重さがあります。今では大東総合センターや大東町民体育館に保管されているものと共に、大変貴重なものの一つです。

写真は昭和30年代の「大東鉱山」です。(大東町大字岡村明賀谷、永瀬嘉亮氏所有)当時の様子を物語るこの写真は大変貴重なものです。
山の中腹に鉱山の坑口がみられ、ここから坑道によって中に入り、モリブデンを産出していました。掘り出されたモリブデン鉱石は、選鉱場(写真赤枠内)に運ばれ、ここで精錬されモリブデン精鉱となり、缶につめられ出荷されます。(選鉱場内の様子は、永瀬嘉亮氏画の絵に詳しく描かれています。)トロッコによって下の道に運ばれた缶はトラックにのせられ、出荷されました。
写真下部を横断している道路は現在の県道玉湯吾妻山線です。道幅も現在と比べるとかなり狭かったようです。その下を流れているのが阿用川です。
グランドがあったあたりは、現在大東窯の建物が建っています。大東窯は釉薬にモリブデンを使うことによって、きれいな緑色の焼き物に仕上がっています。前述の永瀬氏は、この大東鉱山に勤務しておられ、現在は大東窯の職人さんとして活躍していらっしゃいます。

「アヨ・アヨ!」物語

阿用(あよう)という地名はこうしてできました

昔、若者が田んぼの仕事をしていた時に、目一つの鬼が出てきてこの若者におそいかかりました。
その時、この若者のお父さんとお母さんは竹やぶに隠れていましたが、怖くてブルブルふるえたので周りの竹の葉も一緒にガサガサと揺れました。
若者は、自分が鬼に食べられそうなのに、お父さんやお母さんが見つからないように、竹の葉が動いていることを「動、動!」(あよ、あよ!)と言って知らせたそうです。
「あよ」とは、昔の言葉で動いているという意味で、自分の命が危険な時にも両親の安全を願う、美しい心の話として語り伝えられていたそうです。
そして、この「動(あよ)」という言葉が、阿用(あよう)となったと言われています。

(この話は、大東町誌を解釈した物です。町誌には次のように記述してあります)
阿用郷(あよのさと)の郷名伝説・・・大東町誌より

『風土記』の阿用郷の条に次の記述がある。阿用郷。(あよのさと)郡家の東 南一十三里八十歩なり。古老の伝えに言へらく、昔ある人、此の処の山田を佃( つく)りて守(も)りき。
その時、目一つの鬼来て、佃人(たつくる)の男を食へり。その時、男の父母、竹原に隠れて居りき。時に竹の葉動(あよ)げり。
その時、食はえし男、「動(あよ)、動(あよ)」と言ひき。故(かれ)、阿欲(あ よ)と言ふ。
(神亀三年に、字を阿用と改む。)
この伝説は、いわゆる一つ目小僧に似た鬼が、農夫を食ったという怪異伝説であるが、自分の危機に際して、なお両親の安全を念じて『あよあよ』(あよは 動くの古語)と警告したという話で、そこには、郷土先人の親を思う美しい心が宿されていることを感ずる。
以上のような神話伝説は、学校、出版物もなかった古代に、語り伝えて心の支えとし、教えともされたもので、一言一句の間にも、清純な古人の心を読みとることができる。

尼子に攻められた阿用城

阿用城落城【阿用在住 蓮岡 法瞕 氏】

テレビドラマ「毛利元就」に登場した尼子経久は、広瀬町月山城の城主になると、国中の武士に自分の家来になるように求めましたが、阿用の城主桜井宗的はこの要求を拒否しました。
経久は長男政久を大将とする討伐軍を差し向けました。永世5年(1508年)夏、尼子の大軍は宗的がたてこもる阿用の城(今の磨石城)を十重二十重に取り囲み、城の食料が尽きるのをじっと待つ兵糧攻めを続けていました。
その間、笛の名手であった大将政久は城の向かいに築いた高楼で、夜になるとよく笛を吹いていました。
これを聞いてある計略を思いついた宗的は、ある夜一人そっと城を忍び出ると、高楼の向かいにある竹薮に身をひそめました。
やがて高楼から政久の吹く笛の音が聞こえてくると、剛力の宗的は愛用の弓に大雁股(先が角のように二つに分かれた大矢)をつがえ、耳をすまして笛の音を目当てに十分に引き絞ってひょうと放つと、矢は狙いたがわず政久の喉を射抜きました。

・・・この知らせを聞いた父経久は、血の涙を流して悲しみ、怒り、主だった武将に数千人の兵士をつけて攻撃をかけさせ、とうとう城を攻め落としてしまいました・・・

この阿用の落城にまつわる話は、「雲陽軍実記」という1580年ごろ出た軍記物に載っています。(ほぼ同じ話が「陰徳太平記」という軍記物にもあります)本の性質から、話の真実性(史料性)には疑問がありますが、ただ他の史料から阿用の城が尼子氏に攻撃されて落城したことと、その際に政久が戦死したこと(流矢に当たったということ)は確かなようです。そしてその時期は、ほぼ1510年前後と考えられます。
この城は先年調査がなされました。昔は焼米が出土したそうですが、もうありませんでした。
落城以来およそ500年、阿用の城跡は阿用谷を静かに見つめてきました。これからもずっとそうするでしょう。
みなさん、阿用の城跡にのぼってみませんか。そして松風の伴奏で「古城」を歌ってみませんか。

伝説「与右衛門松」

今からおよそ310余年くらい前の話です。
阿用村に鴨目与右衛門という、深く仏教を信じた律義な百姓がいました。
まじめに働いていたにもかかわらず、運が悪くて貧乏をしていました。
ある時金に困ったため、わずかばかりの田んぼを担保にして、大東町の宗右衛門という者からお金を借りました。
年の瀬になって期限が来ると、苦しいやりくりをして返金しました。
確かに返したのですが、その日、宗右衛門の店はあいにく大忙しで、証書を返してもらうことができず、一夜あけてからにしようとその日は家に帰りました。
一夜あけて、のどかな初春が来ましたが、宗右衛門は証書を返そうとせず、度々の催促にも応じてくれませんでした。
そこで最後の手段として法を破り、松江藩主に直訴をしましたが取り上げてもらえず、逆にお尋ね者となってしまいました。

役人に追われる身となった与右衛門は、いったん江戸へ逃げのびましたが、故郷のことが気にかかり、また阿用の地へ帰ってきました。
しかし追っ手の目が厳しかったので、義侠心の強い田井中家の主人をたずねて情にすがりました。
主人は自分の屋敷の奥深く住まわせましたが次第にうわさになって、捜査のため役人が踏み込んできました。
主人が機転をきかして与右衛門を湯殿にかくしたおかげで、その場は助かることができました。

これ以上主人に迷惑をかけることができないと考えた与右衛門は、脱走の覚悟を決めました。
このことを知った主人は、別れにあたって、与右衛門の田でとれた新米でにぎりめしを作って食べさせました。
与右衛門は感謝の念仏を唱え、主人の大慈悲に合唱をして田井中家を去っていきました。

やがて彼は捕らえられ、松江の牢獄につながれた後、斬罪(首を切る刑罰)に処せられることになりました。
旧暦8月24日の夜更けに、寺の門をたたく者がいて、住職が開けてみると、「与右衛門ただ今帰りました」という声がしただけで、そこには誰もいなく、風がひとしきり吹いているだけでした。
住職は、今打ち首にあったのだと思い、急いで本堂に上がって読経を唱えました。

与右衛門の首は大東と阿用の境の路傍の台上にさらされ、首は阿用の方に向かって置かれましたが、いつしか宗右衛門の住む大東の方に向き、恨みの目でにらんでいました。
その後宗右衛門の家は奇病が相継いで、一家は断絶してしまいました。
田井中家では、与右衛門の首を埋めたところに小松を植えて首塚としました。これが与右衛門松です。
その後、月日がたつにつれて、次第に事件の真相が世間に知れ渡って、石碑なども何度か建て替えられたそうです。
しかし、昭和20年代頃までに何回か植え替えられた松も現在ではなくなってしまい、その痕跡を見ることはできません。
このような古い話しはとかく忘れ去られがちな現代ですが、次代へ語り伝えられることは何等かの意味があのではないかと思います。

阿用の蛍

阿用には誇れる自然が多くあります。
その中から阿用川に生息する蛍を紹介します。

テゲンジボタルやヘイケボタルは幼虫の時、清流にしか住むことのできない川ニナを食べて大きく育ちます。
不思議な光を放つ様子を、一度見に来られませんか!
町内には他の場所にも蛍を見ることができる場所があり、シーズンには町の蛍バスも運行されます。
蛍の住んでいる阿用の里は、豊かな緑と、きれいな川のあるのどかな所です。